社会の情勢が如何であろうと、医療制度が亦如何であろうと、何れの国であろうと、医療は人類の最大の不幸(死)に挑む唯―の武器であり、その業は勿論聖業であると思う。
吾々はこの聖業に向って自己の最善をいたすべきであって、之が人間と生れた吾々に課せられた義務であり責任であると堅く信じて止まぬ。
吾々は敗戦の虚脱状態から段々意識をとりもどすに従って、何んとなく御互いに集まって語り合い度くなったのは終戦後感じた気持であった。
「エレブン」会が生れ、土曜会が出来、又方々に集談会が誕生し段々学会が旧態に復したのである。
御互いに無事生存を喜び合った時期が来て世が明るくなったのは終戦後2・3年たった頃だった。
回顧すれば苦しかった思い出は今寧ろ楽しい思い出とさえ変りつつある。
吾々の―人、槇殿 順 はこの頃研究所の設立を計画しレントゲン線技師育成を思い立ったのであるが、「立直り」に時間をとられて最初の5ヵ年間は自己の診療機関の整備に終った。 然るに第2期5ヵ年に於いては「医学研究」を目ざして組織された。 回顧すれば昭和27年から32年の間である。
昭和27年夏の或る日「エレブン」会の帰途、槇殿達は大いに胸襟を開いて語りあったらしい。
当日計画されたプランは先ず胸部レントゲン撮影の基本から始めようと云う事に希望がまとまり、臨床医家にその日から役立つことに目標を置いて槇殿の経験を公開すると云う型ではじめたのである。 従って勢い各人の病院で実際に患者を前にしてやる実習が必要となるので、第1回の発足を11月27日とし、第2回目からは各々の病院と巡回して互いに実際を見ながら論議する事にしたのであった。
各病院では患者数名を選定し、全員之を互いに診断し合い、レントゲン線撮影の手技、並びに読影の訓練より開始したのが、そもそものはじめである。